「物理の小道」 ギャラリー

おまけグッズ編  くだらないと言えばくだらないものですが

第166回  飾り物シリーズ 伊藤園の麦茶のおまけ

「浮き輪のひよこちゃん」  〜 筆者(志)の高校時代 B 〜

 伊藤園の麦茶のおまけで、やすらぎクマさんのシリーズのひとつです。 この 「ヒヨコちゃん」 に、筆者(志)の高校時代の大阪駅周辺を語ってもらいましょう。

現在の 「JR」 は、当時は 「国鉄」と呼ばれていた

 筆者(志)が高校に通っていたころの大阪駅は現在の大阪駅とは随分雰囲気が異なります。 当時は 「JR西日本」の大阪駅ではなく、「国鉄」 大阪駅 と呼ばれていました。 「ボロカス」 に言われている 「国鉄」 の時代だったのです。 毎年 「ストライキ」 で電車が止まる。 運賃値上げが恒例行事化。 サービスが悪い。 当時に言われていた 「国鉄」 の状況は現在のJRを見ていたは考えにくいことですが、相当なものでした。

駅前は、阪急百貨店、阪神百貨店などわずかのビルだけ。

 大阪駅前(南側)は、左に阪急百貨店、正面に阪神百貨店、右に大阪中央郵便局が、当時から建物です。 駅ビルの大丸梅田店、駅前ビルなどの高層ビル群はすべて後から立てられたものです。 当時、戦後からそのままのような木造1階建てのゴミゴミした小さな店の集まり(戦後の闇市かららしい)が阪神百貨店裏にあったのです。

旭屋書店は 「木造2階建て」 の書店だった!

 現在、御堂筋にある旭屋書店は、当時は、このゴミゴミした阪神百貨店裏に店舗があり、 その店舗も 「木造2階建」 の 「大型」 書店でした(今の 「大型」 書店とは比較になりませんが...)。 階段を歩くとミシミシと音がでる 「ウグイス張り」 の構造でした。高校時代からよく通っていた書店でした。 また、桜橋あたりは古本屋がたくさんありました。 現在では、そのあたりは再開発ビル群(駅前第1ビル、第2ビル....)となっています。

国鉄大阪駅の北側は、「さびれた駅裏」 だった!

 大阪駅の北側は現在では、「阪急三番街」、「ヨドバシ・マルチメディア梅田」 など、多くの商業施設がありますが、 筆者が高校生のときには、まだ 「阪急三番街」 はありません。 当時はもっと悲惨な状況でした。駅裏のわびしい雰囲気があるだけでした。 国鉄の 「大阪鉄道管理局」 の威厳のある建物だけで、残りは 「広い広い貨物列車の基地」 でした。 また、阪急梅田駅は、国鉄(現在JR西日本)の高架の下を通過して、南側にある阪急百貨店の建物下に潜り込む構造でした。

 このような 「昔の大阪駅」 がどんどん変わってゆくのは、 東京オリンピック、大阪万国博覧会などの国家的な行事が次々と催される 日本高度経済成長期を迎えたことが大きな理由でもありました。 大阪は、東京に負けないくらいに 「元気があふれる都市」 だったのです。

「阪急三番街」 と 「阪急梅田駅移転」

 商売上手の阪急電車は大阪駅北側に商業施設がまったくないことに目をつけ、 新しく 「阪急三番街」 という商業施設を作るとともに、 阪急梅田駅を現JR線の北側に阪急梅田駅を移すという再開発事業を進めたのです。 元々、阪急梅田駅は、神戸線、宝塚線、京都線と3線が集合する終着駅でありながら、 ホームに停車するまでの急傾斜の線路を持つ、安全上に問題が残る構造の駅であったためという。 また、新 「梅田駅」 を下車した乗客を 「自社が経営する」 阪急三番街に誘導し顧客として導くことも目的でした。 旧梅田駅を新梅田駅に移すことで、阪急電車は 「一石二鳥」 を実現したのです。

 阪急三番街は、地下街に 「川が流れる」 を持ち込んだのです。 川の流れの起点には 細い糸を多数吊り下げ、それに水を流す 「滝のイメージ」 を取り込み、 地下街の中に、水が流れる 「川」 を持ち込んだのです。それまでの地下街にはない 「ファッション」 を実現したのです。 単なる通路であった地下街に 「統一テーマ」 を持ち込んだのもニュース性抜群で、多くの人が押し寄せました。 その頃から、国鉄大阪駅(梅田地区)周辺が大きく変化してゆきます。

梅田地区の地下街の発展(初期)

 大阪駅周辺の地下街でもっとも古い地下街は、国鉄大阪駅と阪神百貨店を挟む道路下の 「旧梅田地下街」 だけでした。 この地下街は、阪神電車、地下鉄御堂筋線の乗り換えや、阪急・阪神両百貨店への地下通路という目的だったのです。 また、この地下街には、全国のお土産物販売店が多数並んでおり、 観光地から手ぶらで大阪に戻ってきても土産物がすべて入手できる便利な地下街でした。 荷物軽減のほか、アリバイ作りとしても利用できる便利な地下街でした。愛用していたお父さん達はたくさんいたようです。

 今では忘れられてしまった風景のひとつを紹介しましょう。 当時の地下街では、今では見かけない 「地下鉄の切符を売る人」 がいたのです。 彼らは、正式の地下鉄の駅員ではなく、地下鉄の回数券を切り売りすることで、収入を得ていた 「私設の切符売人」 でした。 今では考えられないことですが、当時は、それが生活の一場面として定着していたのです。

 その地下街が拡張に次ぐ拡張で、地下街全体が大きく変わっていったのが高校、大学時代でした。

 元々の 「旧梅田地下街」 から、枝葉が伸びるように新しい地下街広がってゆくのです。 したがって、現在の地下街の全体構造は、統一の取れていない複雑な構成となってしまったのです。

 旧梅田地下街の西端は、阪神電車から地下鉄西梅田駅を結び、桜橋まで地下街として続き、肥後橋駅の手前まで広がったのが 「西梅田地下街」 です。 現在の駅前第1ビルへの通路でもあり、演奏会などが催される 「フェスティバルホール」 への経路にもなります。

 旧梅田地下街の東端は、地下鉄御堂筋線梅田駅から、扇町への通路として 「東梅田地下街」 が作られました。 この地下街の終着点は 「泉の広場」 になります。「トレビの泉」 気取りで 「コインの投げ入れ」 などで人気が出たのも有名です。

 これらの地下街拡張の後も、その枝葉はどんどん増えて、線と線の接続から、面状の地下街へと広がってゆきます。 高校、大学時代に拡張された地下街までは筆者も把握できているのですが、 それ以降に拡張された地下街部分は頭には入りきれていません。 東京駅の地下街の整然とした構成とは異なり、大阪駅の地下街群は 「くもの巣状」 の地下街群です。

2005/08/26  管理人(志)


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