ディズニーのキャラクタの新顔 「くまのプーさん」 です。 ディズニーは映画部門を持つため、キャラクタ戦略では優位に立てますね。総合企画力が新しいキャラクタの売り出しに使えるのだから。
現在JR尼崎駅は1つだけあります。しかし、JR尼崎駅は2つあったのです。 国鉄時代、尼崎市は反映した工業都市でした。海岸部の工場地帯の生産物を鉄道で輸送することは重要な業務でした。 海岸部からの輸送を担っていたのが、福知山線の支線 「尼崎港線」 という路線でした。現在の塚口駅(福知山線)から別れ、南北に伸びる路線が尼崎港線でした。
現在の尼崎市のスポーツセンターはJR尼崎駅西方300mほどのところにあり、総合的なスポーツ施設がそろっています。 しかし、筆者(志)が、小中学校の頃は 「野球場」 だけだった。 当時は出入口に鍵がかかっているわけでなく、自由に出入りが出来る 「野球場」 でした。 センター奥のスコアボードの中にも入れるくらいでしたから。
野球場内は広々とした草地(芝生ではない)で覆われ、野球場の周り草地が広々とあり、自然のままで、子供達の遊び場として絶好でした。 昆虫も、トンボ、バッタの類はたくさんいたので、昆虫採集もできました。 その野球場の西側には高さが数メートルになる土手があり、その上に 「尼崎港線」 の線路と尼崎駅があったのです。 南北に走る 「尼崎港線」 が東西に走る東海道線をまたぐため、立体交差線路になっていたからです。
当時の尼崎港線で走っていたのは 「蒸気機関車」 に引かれる貨物列車、客車だったのです。 客車が引かれるのは、朝2回(1往復)、夕方(1往復)のみで、日常はほとんどが蒸気機関車に引かれた長い貨物列車でした。 また、朝夕の客車も貨車と連結された混合列車が多かった。
この高い土手の坂道を力強く登る蒸気機関車の迫力は抜群でした。 野球場周辺で遊んでいる子供達も蒸気機関車の汽笛が聞こえると、尼崎港線の土手に走っていったものです。 土手の上部にまで登り(当時はどこからでも登れた)、自分に覆いかぶさるほどの距離から見る蒸気機関車の姿はいまでは味わえない貴重な体験でした。 草むらに潜んでいると見つからないのですが、機関士さんに見つかると怒鳴られるのですが...。
現在では、この 「尼崎港線」 があったことすら知る人はほとんどいないでしょう。 1980年代に廃線となり、20年以上経過してしまったのですから。
塚口駅から、尼崎港を結ぶこの線路は、ほとんどが貨物列車のためのものでした(乗客用は1日2往復のみ)。 尼崎スポーツセンタの西側の高い土手の上に、もう一つの 「尼崎駅(尼崎港線)」 があったのです。 土手の下から長い階段を上って、もう一つの 「尼崎駅」 に上がるのですが、改札口も切符売りの窓口もありません。 駅員などいるわけもなく、ホーム1つの駅があっただけです。 この 「尼崎駅」 を出てすぐに下り坂になり、たった数百m先にある 「金楽寺」 駅が次の駅です。 金楽寺駅も、線路から数十cmの高さに 「土盛りしたホーム」 があっただけです。 西部劇映画の荒野にでてくるような小さな駅でした。 現在もそのあたりに、線路跡地とわかる 「帯状」 の敷地が残っています(地図を見ればわかります)。
「尼崎港線」 でインターネット検索をかけて見ると、たくさんのホームページが上がってきます。 鉄道マニアのホームページが中心です。ほとんどは廃線後の訪問記ですが、一部、乗車記録もあります。 廃線が近づいてきたため、乗車しておこうという人が多かったのでしょう。 蒸気機関車が走っていた頃の記事、写真は見つかりませんでした。 そのうち、筆者(志)が選び出したHPのリンクを次にあげておきます。興味ある方はご覧ください。 蒸気機関車が走っている頃の写真があればよかったのですが、見つかりませんでした。
1. 「国鉄だった頃・・・」 「国鉄時代の館」に塚口−尼崎港間の乗車記録。この頃はジーゼル機関車で、懐かしい黒白写真が多数。
2. 「尼崎港線(福知山線末端部)跡を訪ねて」 廃線後の線路跡などをめぐる記事です。よく調べています。
3. 「あばんだんエクスプローラー(廃線跡訪問)」 阪神電車のホームページにもありました。尼崎港線の廃線跡地を巡る記事です。