筆者(志)は、SF映画の長年ファンですが、「猿の惑星」を始めて見たときの衝撃的な印象を現在でも覚えています。 第一作の成功で続編がシリーズとして作られるのは、映画界の常識のようです。 しかし、シリーズ物は、続編になるほど第一作の出来に比べると面白みに欠けるという、 どのシリーズ映画も同じ傾向があります(お茶と同じです)。 第一作の最後のシーンは、「ニューヨークの自由の女神」で、 人類が築き上げた文明を自らの手で破壊してしまったこと、 猿が次の文明を築き上げて人を支配していることの2つを象徴的に示して映画が終わる、 この奇抜な着想が成功のキーワードになっています。
ボトルキャップシリーズとしての「猿の惑星」では、 デザインを含めて登場するキャラクタが限定されるため筆者としては面白みに欠けていました。 やはり、ボトルキャップの面白さには、登場するキャラクタの個性が大きな力を発揮するのです。 普通の人間(猿も含めて)だけでは、キャラクタ的に幅に限界がでてしまうのです。 スターウォーズのキャラクタ等のあの奇想天外な数々の異星人の姿などに対抗できるはずがありません。 飛車は、この「猿の惑星シリーズ」のボトルキャップを数個所持しているけれど、 他のものをこのコーナーで取り上げようと思えないのです。
SF(空想科学小説)のテーマには文明発展に対する「悲観派」と「楽観派」の2つに分かれます。 「悲観派」SFは文明発展が、人類の将来に危機をもたらすという前提でストーリーが構成されます。 このタイプは、古くは核兵器(原水爆)という技術を人間が手に入れたため、 各国の争いから核戦争に発展し、地球全体が放射能で汚染され、人類絶滅に至るというものです。 東西冷戦時代には、多くの人の頭に思い浮かぶ「来てほしくない未来図」でした。 現在、東側(共産圏)の崩壊により東西対決構造は崩れ、この構図は描きにくくなってきました。 当然、SF映画もこのテーマでは受けなくなってきたのです。
東西冷戦時代の「悲観派」SFの今までのストーリーがマンネリ化したため、 それを脱却するため、「核戦争」から「環境・バイオ・情報」へとテーマの主流が変わっているのです。 地球温暖化による地球環境の破壊、殺人ウイルスなどが交通手段の発達により急速に地球全体に拡大して、 人類が滅亡するというものです。 また、「情報」をテーマとする代表作には「マトリックス」シリーズが大ヒットし、 コンピュータによる情報管理の行き過ぎが未来社会に与えた弊害をテーマとするものでした。 「悲観派」SFのテーマも「核戦争」のテーマより随分と幅が広くなってきたものですね。
今回の「猿の惑星」は「悲観派」の代表的なものです。 第一作が作られた時期が「東西冷戦」時代だから、 「核兵器」を前提とする古いタイプのSF映画であって当然なのです。 映画を見る側に筋書きを見透かされてしまっては、良い映画にはなりません。 「愛」あり「戦い」ありとストーリーを飾るいろいろなシーンを取り込んで映画が作られています。 宇宙飛行士が遭難でたどり着いた「地球のような惑星」は猿が支配する惑星であったのです。 ずっと「地球ではない」と思って行動していた宇宙飛行士は、 「最後のシーン」のために作られた数々の事件を乗り越えてゆくのです。 この有名な「最後のシーン」は、 「地球に似ているある惑星」が実は「未来の地球」そのものだったという事実を 「ニューヨークの自由の女神」に象徴的に託しているものでした。 興味ある方はぜひ、レンタルショップで「猿の惑星」第一作をぜひご覧下さい。 また、グレゴリーペック主演の映画「渚にて(On the Beach)」は1959年の古い映画ですが、 核戦争を扱う「猿の惑星」と同じテーマの名作映画です。 筆者には強い思い出がある名作です。映画で使われたテーマミュージックも有名です。 詳しくは、この映画を取り上げている Webサイト をご覧下さい。 このSF映画もぜひご覧下さい。
その点、「楽観派」SFは楽しい。映画を見終わって、 面白かった、充実していたなど後味は良い。、 心に負担がかかるような重いテーマはないため、愛あり、恋あり、戦いありと ドラマチックな設定を作るだけだ(SFでなくてもまったく同じ)。 ヒーローが大活躍するこのタイプのSFは昔から現在までも変わらぬ人気を得ています。 筆者が心に残るこのタイプの作品には、 「ミクロの決死圏」、「スターウォーズ」などで、多過ぎて全てを挙げるのが難しいほどです。 楽しい名作映画が沢山あります。